aosakana

9月 01

(元記事: copula (pankaiから))

”甲子園優勝投手”と引き替えにしたものは?

 大野のみならず、甲子園は毎年のように犠牲者を生み出している。86年の大会では、優勝した天理のエース、本橋雅央(早大~オリンパス光学工業)が右ヒジの負傷をおして力投を演じ、その痛々しいまでのマウンド姿が同情を呼んだ。結果的に甲子園でのピッチングが原因で彼は野球生命を絶たれることになる。振り返って、本橋は語った。
「予選から痛みはありましたが、ひどくなったのは甲子園が始まってから。9回投げた時には指の先にまで痛みが走り、小指からヒジにかけての外側は、触れられても感覚がないんです。準決勝が終わった後、痛み止めの注射を2本打ちました。医者に”もう腕はどうなってもいいから、とにかく絶対に痛くならないようにしてください”と頼むと”ホンマに、どうなっても知らんぞ”と言われました。でも、僕は本当に自分はどうなってもいいと思っていた。甲子園で優勝するために、辛くて苦しい練習に耐えてきたわけですから。しかし、今になって考えると、それで良かったのかどうか・・・」
 決勝戦の前、ある記者が「本橋君のヒジは大丈夫なのか?」と天理高の橋本監督に訊ねたところ、「あの子の進路や将来については、私がすべて責任を持ちます」という答えが返ってきたという。卒業後、本橋は推薦入学で早大に進んだが、公式戦には1試合しか登板することがなかった。しかしドロップアウトすることなくきちんと卒業し、一部上場企業のオリンパス光学工業に就職した。一般世間の価値観に従えば、高校の監督は責任を果たし、選手もしっかりと第二の人生を歩んでいるということになる。しかし、当の本橋に悔恨の思いは消えない。「確かに僕は甲子園の優勝投手になれた。これは自分だけの財産だし、誰に対しても胸の張れるものです。と同時に、甲子園で取り返しのつかないことをしてしまった、と後悔しているのも事実です。小さい頃からずっと野球をやってきて、できれば大学で活躍し、プロに行きたかったのに、今やヒジと肩の後遺症で草野球すらできないんですから。大好きな野球ができない。これほど辛いことはないです」

 甲子園の優勝投手はプロでは大成しない~このジンクスは、高校野球の構造的な欠陥を示唆している。貴重な人的資源を「母校の名誉のため」といった美名の下に潰すのは、プロ野球、いや日本野球の将来を考えてみた場合”百害あって一利なし”なのである。このジンクスが一日も早く過去のものになることを願いたい。” — ジンクス5 (via petapeta)

(kikuzuから)

沖縄水産高校の大野投手は、甲子園で”殉職”した。
http://park7.wakwak.com/~team95ers/newpage83.htm

現在、福岡ダイエーホークスで外野手として活躍する(※2002年で退団)大野倫も甲子園の犠牲者のひとりである。91年、大野は沖縄水産のエースとして夏の甲子園に出場、4連戦を含む全6試合に完投し、773球をたった一人で投げ抜きチームを準優勝に導いた。悲劇が酷使の右腕を襲ったのは、決勝戦の対大阪桐蔭戦。試合途中で右ヒジが完全に曲がってしまい、正常な状態で腕が振れなくなってしまったのだ。閉会式では右腕をくの字に折ったまま行進せざるをえなかった。スタンドからそのシーンを目のあたりにした母・良江さんは「あの子のヒジが・・・」と言ったきり顔を伏せ、絶句した。
大野は語った。「決勝戦はヒジがパンクして、キャッチボールすら満足にできない状態。痛みも限度を超えると、頭がボォーッとして自分でも何をやっているのか分からなくなってくるんです。試合中、一度も勝てる気はしなかった。だから負けても少しも悔しくなかった。むしろホッとしたというのが実感でした」
大野が右ヒジに痛みを覚えたのは、県予選が始まる前の5月だった。熊本県の招待試合で鎮西、熊本工業という強豪校相手に2連投、1日で18イニングをひとりで投げきった。右ヒジの痛みは日を追って激しくなり、それが原因で頭痛を併発、満身創痍のまま県予選を迎える。ヒジをかばって変化球主体のピッチングをすると、チームメイトから「おまえのせいで甲子園に行けんかったら、一生恨んでやるからな」と罵声を浴びせられた。大野にとって仲間の罵声は、監督の叱声にも増してショックだった。合宿所のトイレで、人知れず涙をこぼす日々が続いた。
奮闘の甲斐あって甲子園出場。しかし、右ヒジはすでにまっすぐには伸びない状態になっていた。一球投げるたびに、激痛が全身を貫いた。歯を磨くのも左手、顔を洗うのも左手、食事くらいはと右手で箸を持つと、痛みのあまり、幼児のように箸使いがぎこちなくなり、ご飯粒が、箸の隙間から、ぽろぽろとこぼれおちた。

決勝戦の朝は、自分の激痛のうめき声で目を覚ました。窓の外を見ると、雨が降っていた。「このまま降り続いてくれ」大野は悲痛な面持ちで、空に願いをかけた。しかし、無情にも宿舎を出る頃は、雨は上がった。
同校の裁弘義監督は報道陣を前に、こう気炎を上げた。「大野には死ぬつもりでやってもらいます。かわいそうだが、野球生活が終わるつもりで。やる時にはやらにゃあ・・・」沖縄に優勝旗がこんうちは、戦争は終わらん。ことあるごとにそう言い続けてきた裁弘義にとって、甲子園での”殉職”は至上の美学だったに違いない。
しかし、それは「教育」に名を借りた全体主義的色彩の濃い「暴力」以外の何物でもない。さらにいえば、若者の犠牲の上に成り立つ勝利にはいかほどの価値もない。
無念さを押し殺すような口ぶりで大野は語った。「雨で1日休みがあったからといって、勝てたかどうかはわかりません。しかし、あれよりは(16被安打13失点)まともなピッチングができたと思う。せめて腕が上がる状態で、決勝戦を戦いたかった。」
その年の秋、大野は沖縄の病院で右ヒジの手術を受けた。右ヒジの剥離骨折だった。驚くことに大野は骨折したままの状態で773球を投げ抜いたことになる。「春の時点で実は疲労骨折していた。そこへもってきて甲子園で無理をしたため、骨片がヒジの関節のなかに入り、剥離骨折を引き起こしてしまった。もし、手術を受けなかったら、野球はいうに及ばず、日常生活も満足に営めなくなっていたでしょう。残念ながらピッチャー生命はすでに断念せざるをえない状態でした。それにしても、甲子園とは若い人の体を蝕むためにあるものなのでしょうか・・・」(沖縄県立南部病院・医師)
大野の右ヒジには今もくっきりと手術の傷跡が残っている。「高校野球時代のクセで、今でも頭は左手で洗ってしまうんです。そのたびに、辛かったことや苦しかったことが頭に浮かんでくるんです。後遺症なんでしょうねぇ」右ヒジの傷跡は、同時に心に刻まれた傷跡でもある。” — ヒロイモノ中毒 【甲子園の犠牲者】大野倫選手の思い出 (via petapeta)

(kikuzuから)

[video]

(元記事: evgenegve (girlsbravoから))

slanting:

untitled by esther jung on Flickr.

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untitled by esther jung on Flickr.

(元記事: slanting (girlsbravoから))

(girlsbravoから)

megazal:

T by CRISTO- on Flickr.

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T by CRISTO- on Flickr.

(girlsbravoから)

megazal:

Kleiner_Schnee_1 by Li-Han Lin on Flickr.

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Kleiner_Schnee_1 by Li-Han Lin on Flickr.

(girlsbravoから)

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